大判例

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東京高等裁判所 昭和52年(ネ)2307号 判決

第一審原告

大石明美

右訴訟代理人

渡邊昭

石田享

第一審被告

渥美信行

右訴訟代理人

饗庭忠男

村松良

主文

一  原判決中第一審被告敗訴の部分を取り消す。

二  第一審原告の請求を棄却する。

三  第一審原告の控訴を棄却する。

四  訴訟費用は、第一・二審とも第一審原告の負担とする。

事実《省略》

理由

一第一審被告は肩書住所地において開業している産婦人科の医師であり、第一審原告は昭和四四年七月八日を出産予定日とする妊婦であつたこと、第一審原告は、昭和四三年一〇月ころ妊娠し、同年一二月四日、第一審被告との間に、第一審原告の懐胎にかかる胎児の正常分娩及び右を目的とする母子の健康管理事務を内容とする準委任契約を締結して、第一審被告の診察を受け、以後翌昭和四四年一月四日、同年二月五日、同年三月五日、同月三一日、同年四月二五日、同年五月一三日、六月三日、同月一三日、同月二三日にそれぞれ第一審被告の診察を受けたこと、以上の事実は当事者間に争いがない。

二〈証拠〉、原審鑑定人太田伸一郎、同室岡一、同山口龍二の各鑑定の結果を総合すると、次の事実が認められる。

1(一)  第一審原告は、第一審被告医院において昭和四三年一二月三日に初診を受けて以来昭和四四年五月一三日の診察時までは、体重の増加(四月二五日から五月一三日まで、一週間当たり0.78キログラム)を除いては、特段の異常はなかつたが、同年六月三日の診察時には尿蛋白(−)(マイナス)、血圧・最高一三〇最低八六(mm水銀柱、以下同じ。)であつたが、下肢に浮腫(+)(プラス)が現われ、体重六一キロゲラム(体重の増加・五月一三日以降一週間当たり1.17キロゲラム)であつたため、第一審被告は、第一審原告を妊娠腎と診断し、利尿剤(ダイアモックス二五〇mg二錠)三日分を投与し、安静と食餌療法(塩分、水分、刺戟物の制限)及び薬がなくなつたら来院するよう指示した。

(二)  ところが、第一審原告は、この指示に従わず、一週間おくれの同月一三日に訪院したが、その際、下肢浮腫(++)、尿蛋白(+)、体重62.5キロゲラム(一週間当たり1.05キログラム増加)、血圧・最高一六二最低九四であつたため第一審被告は、第一審原告に前回と同一の利尿剤三日分を投与し、同様の指示をするとともに、第一審原告の肩書住所からの通院に長時間(原審証人大石久男の証言によると、第一審原告の天竜市内の住所から第一審被告医院まで、徒歩二五分、バス乗車約一時間、さらに国鉄に乗り換えて二、三〇分、駅下車してから徒歩一〇分、以上合計約二時間を要することが認められる。)を要するから、近所の産婦人科医へ転医するよう勧めたが、第一審原告はこの勧めに応じなかつた。

(三)  第一審原告は、次には一〇日後の同月二三日(妊娠三七週六日、妊娠十ケ月目の中頃)に訪院したが、この度は、下肢浮腫(+)、尿蛋白(+)、体重六二キログラム(前回より0.5キログラム減少)、血圧・最高一七八最低九二で、下肢浮腫の程度と体重は却つて減少し、めまい・頭痛・耳鳴り・嘔吐等の自覚症状は無く、児心音も正常であつたが、血圧の上昇がさらに著しく、妊娠中毒症の増悪が認められたので、第一審被告は、第一審原告に前回と同一の利尿剤三日分を投薬したほか、血圧降下剤(アポプロン0.3mg)の皮下注射、肝臓庇護解毒剤(四〇%ぶどう糖二〇ml+ビタミンB15mg+ビタミンC一〇〇mg)の静脈注射を行い、血圧が上昇していることを指摘したうえ、安静と食餌療法のために入院を勧めたが、第一審原告は実家へ行き相談してくると言つて帰つた。

2  第一審原告は、六月二三日午後、第一審被告医院での診察を受けてから静岡県引佐郡引佐町兎荷三八番地の実家へ行く途中、結婚前に勤務していた清水商店こと田中育方に立寄つて懇談し、ソースをかけた鮎のフライ、キャベツの千切りを惣菜にして米飯の食事を馳走になり、夕方実家に帰つてからも夜一〇時ごろまで話し込んで就寝したが、翌二四日午前三時ころから頭痛と吐気を訴え、間もなく痙攣発作に襲われ、意識不明になつた。

3  医師野末禧徳は、同日午前一一時ころ、第一審原告の実家の実母澤口しめから、往診の依頼を受け、同日午後一時ころ第一審原告を診察したが、第一審原告は痙攣状態にあり、三〇分程で発作はおさまつたものの依然として意識不明の状態で、舌を噛んで口から血を流し危険な状態であつたため、第一審被告に第一審原告の容態を急報したところ、たまたま第一審被告は、産婦が分娩中で手を離すことができなかつたため、静岡県浜松市内の聖隷浜松病院に第一審原告の治療を依頼した。そこで、同日午後四時二〇分ころ、聖隷浜松病院から医師青木智が第一審原告を往診したが、同医師は、第一審原告の病状を妊娠中毒症による子癇と診断し、胎盤早期剥離により既に死亡していると推定される胎児を早急に母体から取り出す必要があるため、第一審原告を救急車に乗せ、酸素吸入させながら同病院に送り、同病院において同日午後七時三〇分ころから開腹手術(帝王切開手術)に着手し、母体から死胎児を取り出した。その間も、第一審原告は、意識不明の状態であつたが、同月二六日午前一〇時ころになつてようやく半覚醒状態になり、その後、徐々に意識を回復した。

4  第一審原告は、以後、同病院にて入院治療を受け、同年七月九日から歩行訓練を開始したが、歩行障害を訴えて自発的に運動することができず、また、脳波にも異常がみられ、てんかん(癲癇)と診断され、その治療を受けたが、病状に変化のみられないままに、同年八月一八日、同病院を退院した。

5  そして、第一審原告は、その後も各所の病院で検査、治療を受けたが、昭和四八年二月二二日に至つて、ようやく、名古屋大学医学部附属病院医師間野忠明により、大脳基底核の病変に起因する錐体外路疾患と診断された。

第一審原告は、現在に至るも全身の筋肉の緊張が保たれないため、顔面及び四肢の筋緊張異常、異常姿勢、随意開瞼障害、発声構語障害などの運動障害をきたし、自力で起居することが不能であつて、発声もかなりの時間を要してようやく不明瞭な発声ができるような状態で、その回復の見込みは殆んどない。

6  なお、妊娠腎は妊娠中毒症の一種であるが、妊娠中毒症は、高血圧、浮腫、尿蛋白の存在を三大徴候とする病態で、浮腫の有無・程度は、体重の増減及び程度によつても明らかとなるものであつて、体重が一週間平均約0.6キログラム(統計上生理的妊婦の体重増加は0.45プラスマイナス0.17キログラムである。)を超えるときは潜在浮腫の疑いがあり、妊娠中毒症として取扱われ、どの程度をもつて重症と判定するか確定的な基準はないが、高血圧(最高血圧一七〇以上)を主体に他の症状を加味して判定すべきものとされる。重症の妊娠中毒症状を呈するときは、強直性及び間代性痙攣を主徴候とする急性中毒症である子癇を突発する虞れがあり、子癇発作によつて心疾患、脳出血その他の後遺症状を起こすことがあつて、第一審原告の前記錐体外路疾患は、子癇に続発した脳内における何らかの障害が起因となつたものと考えられ、このような脳障害は、胎盤早期剥離あるいは子癇を起こすような重症妊娠中毒症によつても稀には起こりうるものである。

以上の事実が認められ〈る。〉

第一審原告の母子健康手帳には、四月二五日、五月一三日の浮腫はいずれも(+)(プラス)、六月三日の浮腫(++)、同月一三日の浮腫(+++)、同月二三日の記載はないが、第一審被告作成の診療録には、四月二五日、五月一三日はいずれも下肢異常なし、六月三日、同月一三日、同月二三日の下肢浮腫についての記載は前掲二、1、(一)ないし(三)記載のとおりであつて、右両者の記載に相違があることが認められる。

ところで、医師法二四条は、「医師は診療をしたときは、すみやかに診療に関する事項を診療録に記載しなければならない。」と規定し、医師に対し診療録の作成義務を課している。また、医師法施行規則二三条は、診療録の記載事項を、(1)診療を受けた者の住所、氏名、性別及び年令、(2)病名及び主要症状、(3)治療方法(処方及び処置)、(4)診療の年月日と規定している。右の内容を有する診療録は、その他の補助記録とともに、医師にとつて患者の症状の把握と適切な診療上の基礎資料として必要欠くべからざるものであり、また、医師の診療行為の適正を確保するために、法的に診療の都度医師本人による作成が義務づけられているものと解すべきである。従つて、診療録の記載内容は、それが後日改変されたと認められる特段の事情がない限り、医師にとつての診療上の必要性と右のような法的義務との両面によつて、その真実性が担保されているというべきである。

前記の診療録と母子健康手帳の浮腫に関する四月二五日から六月一三日まで四ケ所の記載が相違した理由は、当審においても審理を尽くしたが、解明することができなかつたけれども、右診療録と母子健康手帳の記載を対比すると、四月二五日から六月一三日までの四度の診療時についても、浮腫の点以外の記録、すなわち、子宮底・腹囲・血圧・尿蛋白(蛋白尿)・児心音・胎位・体重については、その記載に齟齬がないことは明らかである。

ところで、浮腫の有無・程度については、体重の増減及びその程度によつても明らかとなることは、さきに述べたとおりであるから、前記四度の診療につき、医師たる第一審被告によつて右診療録の浮腫の記載のみを後日改変することは到底考えられないところであり、当審証人澤崎千秋の証言に徴すれば、前記認定にかかる体重の変化からしても、六月一三日(体重増一週当たり1.05キログラム)に(+++)の程度の浮腫があつたことは考えられず、右相違点については、診療録の記載が真実に合致するとみることができる。

三第一審原告は、同原告が昭和四四年四月二五日浮腫(+)となり、同年五月一三日浮腫(+)、体重増加一週当たり0.7キログラム、同年六月三日浮腫(++)、体重増加一週当たり1.16キログラムとなり、妊娠中毒症に罹患し、殊に同月一三日ないし同月二三日の時点で直ちに第一審原告を入院させて治療を行い、子癇ないし常位胎盤早期剥離防止の措置を講ずべきであつたのに、あえて入院措置及びこれに伴う前記措置を採らなかつた債務の不完全履行があつた旨主張するので、この点について検討する。

1  第一審原告は、昭和四四年四月二五日及び同年五月一三日の両日、第一審原告には浮腫(+)(プラス)があり妊娠中毒症に罹患していたと主張するけれども、その頃顕著な浮腫があつたと認められないことはさきに述べたとおりであつて、右時期において第一審原告が妊娠中毒症に罹患していたとしても、その程度は軽度のものというべきである。

2 次に、前記二、1に認定した事実によれば、第一審原告は、昭和四四年六月三日に妊娠腎と診断され、同月一三日には血圧最高一六二、下肢浮腫(++)、体重一週間当たり1.05キログラム増加、尿蛋白(+)の症状から妊娠中毒症状は増悪していたが、同月二三日には血圧最高一七八とやや上昇していたものの、下肢浮腫の程度は(+)で前回より軽減し、体重も0.5キログラム減少し、自覚症状に子癇の前駆症状たる頭痛・めまい・耳鳴り・嘔吐等を欠いていたところから、妊娠中毒症は決してよくなつてはいなかつたが、甚しく進行しているものではなかつたことが認められる。

ところで、前記二掲示の各証拠によれば、妊娠中毒症の治療の基本は、安静と食餌療法(高蛋白・減塩分)であり、次いで薬剤療法(降圧・利尿・鎮静)であり、これらの療法を適確に行うために、症状によつては患者を入院させることが必要であると解せられているが、前記認定した事実によると、第一審被告は、第一審原告の前記症状に照らして、六月三日及び同月一三日に利尿剤(ダイアモックス)三日分をそれぞれ投与し、併せて安静と食餌療法を指示し、六月一三日には第一審原告の住所法から第一審被告医院までの通院に長時間を要するところから、近所の医師に転医することを勧め、同月二三日には右同様の投薬のほか、血圧降下剤(アポプロン)の皮下注射、肝臓庇護解毒剤(ぶどう糖、ビタミン等)の静脈注射を行い、安静と食餌療法のため入院を勧めた(が、第一審原告は実家に帰つて相談してくるといつて帰つたのである)。

ところで、一般に医師は、特段の事情のない限り、自己と診療契約を締結した患者に対し、その専門的知識及び経験を基礎とし、その時における医学の水準に照らし、最も適切な方法により、良心的に充分な診療をすべき義務を負担しているものと解すべきところ、本件において、叙上認定したところによれば、第一審被告の第一審原告に対する診療回数はおおむね医学常識に合し、中毒症が発症してからの対応策すなわち投薬、食餌療法、安静の指示等も、当時の開業医のレベルとして適切であつた(六月三日以降の訪院日の遅延、転医あるいは入院等の指示については、患者たる第一審原告の医師の指示を無視した恣意的態度にこそ責任があるといわざるを得ない。)というべきであり、第一審被告が第一審原告に対してした診療及びこれに附随する措置には、一般の医師としてなすべきことに何ら欠けることはなく、医師として診療義務の履行に不完全はなかつたというべきである(右と結論を異にする原審鑑定人太田一郎の鑑定結果は、同人の原審証言に徴し、乙第二号証の診療録中六月二三日の「自覚症状(一)めまい、頭痛、耳鳴り、嘔吐」とあるのを、これらの症状が存在する趣旨の記載として読み取り、これを前提としてなされたものであると認められるところ、第一審被告本人の原審供述及び弁論の全趣旨により、右記載は、(一)とされた自覚症状の例示として記載されたものであること明らかであるので、前提を誤つたものであり、採用することができない。)。

3 また、前記二、1、(三)のに認定した事実に徴し、六月二三日の診療時における第一審原告には、子癇が発症する危険が大きくはなかつたというべきであるから、このような状況の下において、第一審被告が、第一審原告に対し、第一審被告の勧めに従つて入院しなければ、子癇等の重大な結果を招来するかも知れない等の抽象的危険まで説明しなかつたとしても、直ちに第一審被告に不完全履行があつたと解することはできない。

よつて、第一審原告の前記主張は採用することはできない。

四以上認定したとおり、第一審被告において、第一審原告との本件準委任契約上の債務の完全な履行をしなかつたものとはいい難いから、右債務不履行(不完全履行)を前提とする第一審原告の請求は、その余の点について判断するまでもなく、すべて失当である。

よつて、第一審被告の本件控訴は理由があるから、原判決中第一審原告の請求を一部認容した部分を取り消して、第一審原告の右請求部分を棄却し、第一審原告の本件控訴は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(倉田卓次 井田友吉 高山晨)

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